若狭武田家

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概要

1550年4月の国力は直轄3万石、臣従含めて6万石。これでも上位20%に入る。
勢力は若狭全土の他丹後にも広がる。

初期で朝倉家と細川京兆家と同盟。でも細川家はすぐ滅ぶのであてにならない。
となると浅井家が来るだろう。浅井の国力は倍の15万7000石。逆立ちしなきゃ立ち向かえない。

武将数は千葉家の4倍の4人。臣従含めれば7人。浅井家も7人、一色家は2人+1人。丹波衆は1人大名が多い。そのおかげで、月別利益は赤字の模様。

初期の方針

序盤

  1. 1550年4月。当然のように大隅蒲生と同盟を結ぶ。
  2. 一色の宮津城に進軍。10月に奪い取る。綾部城は失敗。

  3. 1550年11月。ようやく最初の城を獲得。 綾部城の部隊は撃退された。
    赤井家清・直正兄弟が強すぎる。
     

  4. 1551年12月。
    福知山城を制圧。一色が但馬山名に臣従し、但馬山名と若狭武田が隣接。
    但馬山名は臣従含め27万石、対し若狭武田は16万石。

  5. 1552年7月。
    竹田城を落とす。しかし、前線を妙に広げ過ぎてしまった。
    若狭武田19万石、対し但馬山名29万石。但馬山名に隣接するのは尼子28万石と備前浦上21万石。秋まで粘ったとしても同盟を結ぶのは厳しそう。
    浅井は六角がほぼ滅ぼしたが、三好のほうは石山城を落として連結させてしまった。
  6. 【今後の予定】
    3つの城を前線に徹底抗戦。最悪、但馬山名に従属して丹波衆の制圧ですかね。

綱渡りの戦術


  1. 戦略を有効活用し、但馬山名の分断に成功した。若狭武田の倍の兵力を持っていたが、ちょうど半分半分に分散したおかげで、
    建部山城を包囲することに成功した。
    出石城の部隊は竹田城に侵攻したが、兵力をある程度置いており、2ターンは持つ計算だ。

  2. 建部山城を包囲した後、うまくやれば出石城をも崩せる計算にまで入った。
    若狭武田は黒字だが、但馬山名は夏場には赤字に転落する。しかも臣従の国人が多いので、兵力を一点にまとめにくい。このことも有効活用し、なんとか若狭武田は優位に立ちつつあった。
    それでも9月の時点で若狭武田5500vs但馬山名8000と、まだ但馬山名のほうが多いのだが。
  3. 1552年11月。ついに但馬山名から建部山城を獲得する。国力差は5万石まで縮まる。
  4. 1553年4月。今川の伸びが早く、もう織田が滅亡している。粟屋家で粟屋光隆が元服、兵力数が増える。

  5. 1553年8月。
    八木城を落とし、わずかながら但馬山名の石高を逆転。でも三好・六角の伸びが早い。ガンガン琉球に船を出して、鉄砲を買う。
  6. 1553年11月。三好と隣接。同盟を組んでくれた。
  7. 1554年5月。豊岡城を落とし、主力を出石城に包囲。
  8. 1554年6月。うまく包囲に成功。

  9. 1554年9月。大包囲に成功。垣屋光成・武田高信はあっさり登用に応じた。


    包囲でほとんどの武将を失った但馬山名。臣従大名家は郎党が当主に。
  10. 1555年5月。若狭武田に危機が迫っていた。六角が隣接し、粟屋家があわや靡きそうになっているのである。
    【今後の目標】
    秋まで六角相手に粘る。それでも駄目なら、三好家に従属。
  11. 1555年7月。当主:武田元光が死去。次期当主:信豊は但馬の奈佐城を包囲中。
    これを良いことに、粟屋家は無事寝返った。

若狭放棄、従属へ

  1. 1555年8月。一度細川京兆家の従属に下る。三好とは一時的に敵対するが、主力が小浜城を包囲し次第三好か六角のどちらかに鞍替え。
  2. 1555年10月。六角が細川京兆家との同盟を破棄し小浜に侵攻。聞いてないぞ
  3. 1555年12月、黒井城制圧とともに三好・六角両家と同盟を結ぶ河内畠山に鞍替え。
  4. 1556年3月、逸見家の田辺城を制圧、若狭と補給線を繋げる。
    細川京兆家と波多野家は河内畠山家に臣従してしまったが、六角が河内畠山と同盟を切ったら侵攻する予定。

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