最上家

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概要

奥州探題大崎氏の分家で、羽州探題を務めていたが、その勢力も今や昔。
数年ほど前は、伊達家に傀儡を押し付けられ、属領になっていた。
奥州を二分する天文の乱によって、ようやく独立を果たすこととなる。

1550年時点の勢力は、南出羽の1城大名で、家臣は平々凡々な武将が2名。
名将、最上義光(よしあき)の登場は13年後の1563年とのこと。

史実ではここから出羽南部を支配する国持大名となったのだが、最上騒動で1622年に改易される。

初期の方針

初期戦略

  1. 1550年4月、定石通り大隅蒲生家と同盟。武将は一人でも多く欲しいところ。
  2. 寒河江城・天童城を同時に包囲。武永家に後ろを突かれないよう、山形城の守備兵を増やす。
  3. 1550年8月、次ターンで滅亡する織田大和守家に従属。
  4. 1550年9月、織田大和守家から坂井甚介が落ち延び。久慈・武永と同盟。寒河江城を落とす。その後、府中小笠原とも落ち延び目当てで同盟。
  5. 1550年12月に天童城を落とす。3城7人の中堅大名へと成長。延沢に進出。

  6. 1551年11月。
    延沢城を落とし、武永家を従属。8万石。

    【今後の目標】
    岩手沢城をじりじり削りつつ、清水城ハイエナと上山城で伊達削りをしたい。

  7. 1552年3月。


    岩手沢城を制圧。この月の葛西崩れ(名生城の戦い)で 葛西家を一気に弱体化させる。
    また、翌月には同盟していた太田雑賀衆から、太田宗正・定久兄弟が落ち延び。武勇7は優秀。

  8. 1552年9月。


    葛西家を蚕食。東北で2つしかない港の一つ、石巻城を獲得(もう一つは青森の十三湊)。
    石高は東北で頭一つ抜けた25万石。でも全国1位の大友家とは4倍差、北条ともそのくらいの差。
    早く東北を平定してせめて肩を並べたい。

  9. 1554年1月。


    南部征伐を開始。最上は臣従大名合わせて51万石とこれに安東7万石。対し南部は11万石。

  10. 1555年1月。
    南部征伐が完了。伊達家は同盟を切ったターンに従属志願してきた。

中盤

  1. 1555年11月。


    蘆名家を臣従。石高順位で1位になった。
    1城を挟んで武田と隣接。
    【今後の予定】
    武田と一戦交えます。

  2. この後、上杉を滅ぼした後に武田から不戦要請。受諾。結城家は不戦に応じなかったので滅ぼすことに。

  3. 1556年9月。
    結城家を従属。武田家と不戦破棄。 2度不戦と破棄を繰り返させ、武田の財力を削る。
    この頃、武永家で里見民部が元服。智謀7であれば武田信玄(智謀9)にも勝てる(斎藤道三や毛利元就ら智謀10には奇襲を食らわないが)。史実でも最上家臣として活躍したので、頑張ってもらいたい。

  4. 1557年10月。


    武田を越後から退ける。北条と不戦破棄し切り崩しをかける。

  5. 1558年3月。


    北条家を30万石ほど切り崩したところで停戦。

    【今後の予定】
    武田を滅ぼし、鉱山を確保。その上で本格的に北条と再戦。

  6. 1558年9月。


    武田・織田・浅井が従属志願。 北条側から不戦を破棄してきた。
    三好・六角と同盟を結び西側を抑える。

    【今後の予定】
    最上本軍で関東を抑えつつ、武田ら従属大名で東海を抑え込む。

  7. 1559年7月。


    北条と停戦。尾張方面で北条は善戦したが、関東方面は蹂躙され、武蔵と相模・下総の大半を失陥する結果に。
    また、武田が進路を塞ぎそうになったため武田とも関係破棄、侵攻することに。

  8. 1560年4月。


    武田家を滅ぼす。捕虜21名を一気に登用。 直轄領だけで446万石、臣従含めた石高は778万石にまで達した。

    このタイミングでCPUに完全委任すると、1572年9月に天下統一となった。

終盤


  1. 1560年9月。
    北条・朝倉を臣従。六角と開戦。
  2. 1561年1月。
    六角を一気に崩し、東日本を制覇。

    このタイミングで委任すると、1564年5月に天下統一となった。
  3. 1563年。三好・大友を臣従。このあたりでようやく最上義光が元服。

  4. 1565年11月、ついに天下統一。
    最後は武田残党と松浦家を滅ぼしての統一となった。
    最終直轄石高は949万3078石。

感想

山形統一するまでと、武田北条切り崩すまでが大変でしたね。
そしてやはり終盤はダレます。

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